「姫。」その響きは随分懐かしいものに思えた。
それは俺にはおおよそ似つかわしくない呼び名で。
それでも貴方が口にすると不思議とすんなり入ってくるから面白い。
それはきっと貴方があまりに王子様らしいせいなんだろうと、そんな風に思ってみる。
犬と俺と王子様
俺は犬が嫌いだ。
それは物ごころついた頃からそうだった訳ではなくて、もともと動物好きだったのもあって昔はそれなりに犬も好きだった。
そんな俺が奴らを苦手だと意識するのには、ちゃんとした理由がある。
ただ、もともと犬アレルギーだった俺は小さい頃から犬に触れることが出来なかった。
それでも好きなものや興味のあるものとの接触を避けて過ごさなければならないことは
子供だった俺にとって容易い事ではなかったし、触れたいという欲求を抑えることもまた、容易ではなかった。
だからあの日も、俺は迂闊に近づいていってしまったのだ。あいつに。
きっと犬は悪くないんだろうけど、あの出来事は俺にトラウマを植え付けるのには十分だった。
そんなこと言うとみみっちい奴だと思われるかも知れないけれど、
それは未だに尾を引いているんだからあの時の俺には相当にショックな出来事だったって事だ。
あれはたしか俺が小学校の中学年くらいの頃の話だったと思う。
その日も俺は何かと興味のそそられる物の多い学校への道を、ピンセットやリトマス紙なんかを持ちつつ歩いていた。
そこに現れたのが一匹の野良犬。
もちろん俺がそいつに興味をそそられない訳がなかった。だから近づいた。
ただ撫でてやりたかった。それだけ。
あわよくばその鼻先にリトマス紙をくっつけて実験材料にしようなんて事も考えていたけれど、
俺は寸でのところで自分が犬アレルギーだった事を思い出し、撫でようとして差し出した手をひっこめた。
なんでも母親が言うには、俺が犬に触ると咳が止まらなくなったりひどいジンマシンが出たりと色々大変なことになるのだそうだ。
そのためになんども犬に触らないように注意されていた。
言いつけを守って犬に触らなかった俺は、長居するとよくないと思いその場を離れることにした。
それなのに、あろうことかその犬は勢いよく俺の後をついて来た。
触ってはいけないという思いから俺は必死に走って逃げたのだけれど、今思うとそれがいけなかったのかもしれない。
逃げる者を追いたくなるのは人も犬も一緒らしく、執拗に追いかけまわされた。しかも割に足が速い。
けれどあいにくこっちにも追われると逃げたくなるという心理があるために、足を止めることは出来なかった。
その結果、最終的に疲れ果てて油断した俺はちょっとした段差に躓いて階段をゴロゴロと転がり落ち、
走っていた勢いもあって体中傷だらけになってしまった。
さすがに少し反省したのか、それとも犬はそんな事一切考えておらず、
単純に階段を下るほど俺への執念が無かったのかなんなのか、それ以上追いかけてくる事はなかった。
それでも俺は痛みでしばらくその場を動けずに、じーっとしてこみあげてくる涙をこらえていた。
それからしばらくして痛みが引いた後にゆっくりと立ち上がり学校へ向かったのだけれど、案の定その日は遅刻の扱いになった。
教室に入って一番に駆け寄ってきたのは凛で、傷だらけの俺を見て心底驚いた顔をしていた。
心配そうに気遣ってくる凛を前にして緊張がほぐれたためか、俺はその場でこらえていた涙を大声を上げながら一気に流した。
そんな俺を見ておろおろしだしたクラスメイト達をよそに凛はそっと俺を抱きしめて頭を撫でながら「もう大丈夫だよ。」って、優しい顔をして言った。
それから、これからは一緒に登下校しようとも言ってくれた。
最後に凛が言った「やーはわんが守る。」って言葉も忘れない。
そんな事言った所為で凛はクラス中に冷やかされて、俺達のあだ名がしばらく“王子”と“姫”になったこともあったけれど、
凛はそんな事気に留める様子もなく次の日から本当に毎朝一緒に学校へ行ってくれるようになった。
むしろ凛は俺達のそんな状況を楽しんでいるようにも見えるくらいで、たまに俺の事を姫と呼んだ。
そんな時は大抵からかうようなニヤリとした意地の悪い笑みを浮かべていたりしたものだけれど、たまにまじめな顔でその名前を呼ぶこともあった。
それは決まってなにか秘密を打ち明けたり、言いにくい事を言ったりするときだったのだけれど。
そのままの俺に話すのでは何か気恥ずかしかったりしたのだろうか。
とにかくそんな時は俺もまじめな顔をして凛の話を聞いた。
それもしばらくしてクラスでそのあだ名で俺たちを呼ぶ者が居なくなった頃から段々と少なくなって、ここのところとんと聞かなくなっていたのだけれど、
それでも凛が今突然その名前を口にしたのには何か理由があるように思えた。
突然姫なんて呼ばれて、俺はとっさにはそれがどういう意味だか判断しきれずに
一瞬何のことだろうか、なんて頭を巡らせてみてから、それが俺のあだ名だった事と、それからちょっと前の出来事とを同時に思い出した。
そして声の調子で大体は分かっていたことだけれど、それでも俺は凛の表情を確かめた。
横目でチロっと見てみたら、やっぱりそこにはあの意地悪な笑みは浮かんでいなくて、至極真面目な顔をした凛がいた。
最近では俺たちの間に秘密なんて無いんじゃないかってくらいお互い何でも言い合っていたから、
凛がそんなまじめな顔をして話すことも少なかったし、あったとしてもちゃんと“寛”っていう俺の名前を呼んだ。
それでも言いにくいような事が、あるのだろうか。
どうしても伝えたくて、けれども俺に直接言うには憚られる。そんなこと。
姫にだったら言えるのだろうか。目の前のこの王子様は。
それだったら。俺はいつかみたいに真面目な顔をして彼の言葉に耳を傾けた。
「姫。」
「ん?」
「懐かしいな。」
「うん。」
「今じゃもう、わんなんかに守られなくっても平気になったやー。」
「まあな、今となってはインのほうからわんなんかに近づいてこねーらん。」
「姫。」
「ん?」
「…わん、本当に王子様だったらよかったのにやぁ。」
「ぬーが?」
「そしたらずっと、やーといられる気がするあらに?」
「別にそんなの王子様なんかじゃなくたって。」
「違う、そうじゃなくって。わんは、」
次に彼が言おうとしている事はなんとなく想像出来ていたようで予測のつかない言葉だった。
「わんは、やーが好きさぁ。」
ただそれは、本物の王子様より王子様らしい。
そんな彼からの言葉だったから、俺も本物の姫だったらよかったなんて一瞬思ってしまった。
本当の話、凛はもうとっくに俺にとって王子様みたいなものだった。
みたいと言うよりは、王子様そのもので。
俺は見た目も中身もいいとこ召使みたいなものだから、そんな俺に向けられた王子様からの言葉に戸惑った。
「だから、…わんが本物の王子様で、やーもお姫様だったらいいのになって。そうしたらわったーは、永遠に結ばれる運命あんに?」
「…凛、」
「あのさ、何も言わないで。」
「…。」
「自分でも何言ってるかわからんし、バカみたいな事言ってるって分かってるばぁ、
やしがわんは本当にや―の事が好きで、好きで好きで仕方がなくて、だから、だから…どうすればいいのかや。もうわからねーらん。」
「…凛、」
「だから、何もあびんでいい。」
「やしが。」
「何も、聞きたくなっ…!」
だったら、俺は何も言わないから。
言わなくても伝わるように、あの時から思っていた気持ちが伝わるように。
精一杯の想いを込めて、貴方に口づけを。
「ひ、…寛?」
「………。」
「…。」
「…。」
「なにか、…あびて。」
「…あのな、凛。」
「うん。」
「わーにとってやーは、もうとっくに王子様みたいなもんさぁ。」
「え?」
「やしがわんはお姫様みたいにはなれないから、だからわんはわんのまま、知念寛のままでいるから。だからやーもそのままでいて。」
「…。」
「王子様とお姫様じゃなくたって、ずっと一緒にいることは出来るあんに?
やーが王子様ならわんもお姫様じゃないとずっと一緒に居ることは出来ないかもしれないやしが、やーが平古場凛なら、凛のままなら、
わんはずっとそばに居られる。だから、そのままでずっと隣に居てくれればいい。わんの大好きな凛のまま。」
「…。」
「それは、出来ない?」
凛は首を横に大きく振って目に涙をためたから、俺はあの時凛がしてくれたみたいにそっと彼を抱きしめて、それから優しく頭を撫でてやる。
小刻みに震えだした肩をぎゅっと力を込めて抱きしめると、俺のシャツにじわっと涙がしみ込む感覚がした。
凛は今、安心しているのだろうか。ほっとしているのだろうか。
何から逃げて来たんだろう、何に怯えてたんだろう。
目には見えない傷が、あの時の俺みたいに凛の心に刻まれているとしたら、それは俺のせいかな。
だけど俺は、あの時の凛みたいに「俺がお前を守ってやる。」なんて言わない。
王子様になんてなりたくないから。
俺は俺のままで、ただそっと、その傷が癒えるまで。
「傍に居るから。」
「うん。」
「わんもやーが好きやっさ。やーが王子様なんかになる前から。」
「…じゅんに?」
「うん。」
「そっか、わんも。へへっ。」
「え、しんけん?」
「うん。」
「え?ぬーが?」
「だってやーって昔、将来こんなでっかくてとっつきにくい感じになるとは想像もつかないくらい可愛いかったし。」
「…。」
「それになんか、見てて面白かったし、優しくて。あとはなんか、いつもシャンプーの良い匂いがした。」
「…いなぐかよ。」
「いや、その頃から寛はいなぐより全然魅力的だったな。」
「なんか…凛が魅力的とか言っても似合わない。変。」
「うっせぇ、いいだろ。」
「ってことはわったーはあの事がなくてもすでに両思いだったのか。」
「だな、むしろ遠回り?」
「…やっぱりインは嫌いだ。」
「そうかあ?可愛いやー。それに寛もインの前では可愛くなる。」
「…もとはというと凛が早くわんを迎えに来ないからあんなことになった。王子のくせに。」
「はあ?なんやっしそれ。あれはやーが勝手に…まあ、そうだな。でももういいあんに?わったー、これからはずっと一緒に居るって約束したし。」
「うん、そうだな。」
「うわ…ちゃーすがやぁ。」
「ぬーよ?」
「わん寛の事好き過ぎてどうしよう。」
「ん―…じゃあキスしたら?」
「…寛がそんな事言う日が来るなんて…。」
「ふーん、しないならいい。」
「あいっ!するする!します!」
「ぷっ。やーのほうが断然可愛くて見てて面白くて偶に優しくて、なんかシャンプーの匂いのするイナグより魅力的な奴やっし。」
「偶にってなんだ、偶にって。それよりちょっと屈めよ。…やっぱやーは姫なんて質じゃねーな。」
「そうだろう?」
王子様とお姫様、そんなものよりずっと、硬くて強い絆で。
ずっとあなたの傍に居られたら、そんなに素敵なことはない。
だからあなたはあなたのまま、いつまでも俺の隣にいてくださいね、
凛
はい、今回も訳のわっかんないものができました(笑) 知念君がお姫様って…意味わかんねぇ…。
それからもう一つ、犬も知念君もだーい好き!という方には、申し訳ない設定です。すみませんでした。
ちなみに私は犬、好きです。だけど猫はもっと好き。だけどアレルギー…。
知念君を私のつらい境遇に引きこんで仲間に仕立て上げるのがくせになりつつある今日この頃。ホントごめんね。
こんなんですが、最後まで読んで下さった方、ありがとうございました^^