あれから一週間もしないうちに、俺は再び寛の居る実験室を訪れる事になった。
どう頑張ってみても、一日中寛のことを考える事がやめられなくなってしまったのだ。
モヤモヤしたり、イライラしたり、ズキズキしたり、…ドキドキしたり。
寛のことを考えるとそんな風にいろいろな感情がぐるぐると駆け巡って、他の事が手につかなくなってしまう。
つまり、好きになってしまったのだと思う。
案外曖昧なこの感情を、“好き”であると認めたのは、寛のことを考えているだけでどうしようもなく幸せな気持ちになってしまう自分が居たから。
それでも、この感情が薬によってもたらされるものだとしたら、俺はそんなもの要らない。
―カラカラッ―
「ひ、寛…。」
「…裕次郎か。」
ゆっくりと実験室の扉を開けると、ビーカーを揺すっていた寛がこちらに視線を寄こして、どうしたのって言いながら一瞬ふわりと笑った。
そんな事だけで胸が締め付けられるほど苦しくなるのは、きっとあの薬の所為なんだ。
寛は手に持っていたビーカーを実験台の上のビーカーラックに立てて、ゆっくりとこちらへ向かってきた。
「ん?なにか用があって来たんだろう?」
「う、ん…あのね、薬頂戴。」
「…なんの?」
「惚れ薬の、効果を無くしてくれるやつ。」
「え?惚れぐす………あ、あぁー、あれか。」
「お願い、作って。」
「あの、これは前にも言ったけど、わんは効果も出てないうちからそんなものを作る気はないんばぁ。だから、ごめん。」
「…効果、出たから。」
「…え?」
「わん、気が付くと寛のこと一日中考えてて…一緒にいるとでーじちむどんどんするし、
さっき笑いかけられた時なんて、どうしようかと思うくらい幸せな気分になった。…好きになっちゃたよ、寛…。」
「裕次郎、やー…占いとか、ジンクスとか、すぐに信じる性質だろう。」
「…え?」
「だってやーが飲んだあれは、スプーン一杯分の砂糖を入れたただのコーヒーどー。」
「…え、なに…?」
「だから、あの時やーが飲んだのは惚れ薬でも何でも無いただのコーヒーだったんばぁ。」
「…は?じゃあ何でこんなにドキドキしてるの?寛のこと、好きになっちゃったからでしょう?」
「大丈夫さぁ、裕次郎はわんのこと、好きでもなんでも無い。」
「好き、だよ。」
「それはきっと、思い込みだ。…例えるなら、良くあたるって評判の占い師に“貴方は同い年で実験好きな背の高い人と恋に落ちます”と言われてそれがわんだと勘違いしたときのような、
そんなものだと思う。だからそれは恋じゃない、ただの思い込みだ。」
「違うってば!」
「それに、本当の好きっていうのはこの気持ちがいつまでも消えてなくなったりしないようにって、そう願うような幸せな気持ちのはずだ。
薬で気持ちを消そうなんて思うくらいのものなら、そんなのは何もしなくたってすぐに忘れていくさ。」
「でもっ…。」
「…わっさん、裕次郎には悪い事したと思ってるさぁ。実験してみただけなんばぁ。」
「じっ、けん…。」
「ほら、車に酔いやすい人にただの小麦粉を酔い止めだと言って飲ませると、車酔いしにくくなるって実験があっただろう。
そういうのが、他の事でも通用するのかと疑問におもったんだ、それで。」
―バチンッ―
気が付いたら、思い切り利き手の平で寛の頬を叩いていた。
左手が、じんじん痛む。それよりももっと痛むのは、心臓の辺りだった。
「最低だな…本当最低だ。」
「……これでわんのこと、嫌いになれたか。」
「っ…、馬鹿っ!嫌いになんてなれねーよ!あの時わんの事あんなにあっさり騙せたんだから、
今だってもう一度ただのコーヒーに少しの砂糖を入れてこれで効果は消えるよって言ってくれれば良かった!
それなのに、何でそうしてくれなかったの。中途半端に種明かしなんてされたらどうしていいのかわかんないよ…。」
「…そっか、ごめん。裕次郎がどれだけわんの事好きになってくれたのか分かったから、もう終わりにするさぁ。」
「なにが!」
「本当は今のが嘘で、惚れ薬が本当。薬の効果がどれだけのものか知りたくて試すみたいな真似した、わっさん。
もう効果は十分に実証できたからいいよ。おかげで薬が成功したって分かった。ありがとう。」
「…へ?」
「…手、出してみて。」
「…。」
「ほら。」
「…う、ん。」
言われたとおり素直に左手を差し出すと、寛がポケットから取り出したケースを開けて、
その中から水色の丸い塊をひとつ、ピンセットで摘んで俺の手のひらにのせた。
「なに、これ。」
「ある植物から出た汁を煮詰めて結晶をとりだし、それをさらに煮詰めて少量の添加物をいくつか加えた、あまり身体に良いとは言えないけど美味しいもの。」
「なにそれ、いらない。」
「いいから食べてみ?」
「…っ!?何コレ甘い!おいしい!」
「くくくっ…それで、惚れ薬の効果は消えるよ。」
「えっ…。」
「暫くすれば、今までの気持ちが嘘みたいに消えて無くなって行くんだ。」
「…。」
「だからその前に、一回だけ…抱きしめてもいいかやぁ。」
「…え?」
「ごめん、」
―好きだ―
一瞬にして視界が遮られたと思ったら、そんな声が耳元で響いて淡く消えていった。
目の前に広がる白衣の白と薬品の匂いに、あぁ、抱きしめられているんだなと思った。
それと同時に感じた幸せな気持ちは、寛の言うところの本当の好きだったのだと思う。
だってね、この気持ちがいつまでも消えてなくならないようにって、そんな事思ってしまったんだ。
だけどこの気持ちももうすぐ消えていくんだね。寛の苦しみも、ここで終わりにしてあげるから。
「寛…。」
「…んっ、…。」
「これ、やーにもあげる。それでわんへの想いも、消えるよね。」
「…ふっ、そうだな、ありがとう。」
今まで俺の口の中に入っていた甘い塊が、寛の口の中でコロリと音を立てた。
寛は泣きそうな笑顔で俺にお礼を言って、それからすぐに背を向けてしまった。
それは、もう行けって事かな。
俺はゆっくり実験室を出ると、走って屋上へと向かった。