初めは本当に、ただ何が何だか分からなかった。
どうして自分がここにいるのか、何のためにいるのか。
…今になって思えば、それは君と出会うためだったのかもしれない。
Now Recording
この広い世界の中であっても、こんな経験をしたという人は滅多にいないと思う。
いや、もしかしたら誰もまだ、自分と同じ体験をしたことがないのかもしれない。
俺がした経験。時間をさかのぼること…つまり、タイムスリップだ。
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ピピピピ…ピピピピ…
いつものように枕許にある目覚ましを片手で探り当てる。
ピピピピ…ピッ
「ん…まだねむか…。」
そのままいつものように二度寝の体勢に入ると、丁度良いタイミングでミユキが起こしに来る。
「兄ちゃん、起きんね?朝ごはんできとおよ。」
「ん…。」
それはつい最近までの日常で、高校を卒業してから実家を離れて暮らす千歳にとっては懐かしい一日の始り方であった。
この時点で多少の違和感はあったと思うのだけれど寝起きの頭では何も考えられず、
とりあえずぼーっとした頭でリビングへ向かう。前を歩く妹が、いつもよりやけに小さく感じた。
……… いや、明らかに小さかった。
だんだん覚醒していく頭で必死に考えると、周りの状況がおかしいことに気付き足を止める。
一緒に歩いていた俺が突然立ち止まったことに気がついたミユキがこっちを振り返る。
「どげんしたとね、兄ちゃん」
そこで気付く。今日は平日の朝だというのに
高校生であるはずの妹はお気に入りだという制服を着ておらず、
それは何年か前に毎朝見ていた小学生の頃の姿だった。
そのことに気付いた俺はだいぶ混乱していたが、
それを悟られないように妹を前に進むように諭す。
「なんでもなかよ。それより兄ちゃん腹減ったばい。」
ふふ…と笑いながら妹は、いつもの席について朝食を食べ始める。
「なぁなぁ、兄ちゃんまた背伸びたんじゃなか?」
「ん、そうね?…そうかもしれんばい。」
言いながら部屋を見渡す。すぐにカレンダーに目がとまった。
それは今が6年も前の、冬の終わりであることを示していた。
つまりそれは、ちょうど自分が右目の視力を失って1カ月経とうとしている時期だ。
まさか、と思った。こんなことが現実に起こるはずがない。
それでも家族はみんな、何事もないような顔をして“いつもの朝”を過ごしている。
自分の考えを確かめるため、急いで朝食を摂って部屋にかけこむ。
やはりそこは、6年前の自分の部屋と何一つ違わないあの場所だった。
「…なんね、これは。」
とりあえず独りで冷静になってこの状況について考える必要があると思った。
がさごそと机をあさり、必要なものだけ鞄に詰めて制服を着る。
6年も前のものだけあってさすが小さい。昔から大きいほうではあったが、
今より10cmは小さかったと思う。
その小さい制服を身にまとい、玄関で急いで下駄をはく。
それから勢いよくドアをあけて「行ってきます。」と家を出る。
後ろで「兄ちゃん、もう学校ばいくと?」とミユキの声が聞こえた気がしたが、
そんなことに気をとめている余裕はなかった。
それから無意識のうちにたどり着いたのは、学校をさぼって良く猫と戯れていた公園だった。
公園の端にあるベンチに腰掛けて、考えを整理する。
今のところ、一番有力な答えは自分が過去に来てしまったということだった。
それは、非現実的なことであり、ありえるはずもないことだとわかっている。
それでもこの状況を説明するには、それしかあてはまるものがなかった。
良く小説やドラマなんかで観るそれでは、主人公が何か重大なことに巻き込まれていたりする。
その場合、大抵主人公のタイムスリップを知っている人物なんかは一緒に事件に巻き込まれる。
現実にこんなことが起こった今だって、それを知る者にはなにか起こる可能性だってある。
そう考えると、このことは誰にも気付かれてはいけないことである気がした。
次に考えたのは、誰にも気づかれない場所へ行くこと。
ここではない何処か遠くへ行くことだった。
成長期とはいえ、ここまで急激に成長することなど普通では考えられない。
家族といればすぐにおかしいと気付かれるだろう。
誰も自分のことを知らない場所に行かなければ。
それから自分の考えをまとめて、家へのみちを引き返す。
ドアを開けて家に入ると、洗濯物を干していた母が驚いた顔をしてこっちを見た。
「どげんしたと。学校ばいかんかったと?」
「ん、…大事な話があるけん、聞いてくれん?」
ふだんへらへらしている息子の真剣な表情に、ただ事ではない雰囲気を感じとった母は
だまって話を聞く態勢に入った。
「あんな、俺……、大阪ば行きたいとおもっとる。」
母は一瞬目を見開いたが、それでも話を最後まで聞いてくれた。
「俺、大阪で…
そこで一瞬言葉に詰まる。とっさに出た言葉は、自分でもびっくりするような内容だった。
大阪で、テニスばしたいと思っとる。こん熊本ばはなれて、色んなとこのテニスば見てみたい。
だけん、行かせてくれんね?」
それを聞いた母はしばらく考えている様子だったが、
結局『はい』とも『いいえ』とも言わず、父が帰ってきたらまた話し合うと言った。
部屋に戻って座り込む。どうしてもここから離れる必要があるように感じた。
でも、どうしてそれが大阪なのかは自分でもわからなかった。
ただ、頭の中にはいつか桔平がしてくれた、
大阪の面白いテニスをする奴らのことが浮かんでいた。
父が帰ってきて話しあった結果、無事に大阪に行けることになった。
普段からふらふらと何を考えているか分からず、いつも自由にやりたいことをしてきた息子のことだ。
今更それを止める気にもならなかったのだろう。
それから半月後、テニス部には退部届を出して荷造りを始めた。
それを聞いた桔平も、けじめだとテニス部を辞めた。
それは過去に一度体験したことなので今更驚くことでもなかったが、
やっぱり少し胸が痛んだ。