近頃、自分でも怖いくらいに裕次郎の事ばかりが頭に浮かぶ。
凛を好きだと感じていた頃は、ただ漠然と“凛の事を好きな自分”というものがあって、
『好きだ』と最初に文字にした時から途端に加速する、ある種の暗示のような、
けれどもコントロールの利かない激しい感情が、常に胸の内に渦巻いていた。
それに比べて今は、あれが本当に恋心と呼べるものだったのかと疑いたくなってしまうほど、
穏やかで温かくて、胸焼けするほど甘ったるい気分が続いている。
その平穏が乱される時と言えば、裕次郎と目が合った時かその名前を口にする時かで、
それもむず痒いようなくすぐったさが一瞬心を乱すだけの、ただそれだけの事だった。
確かにこの感情を形容しようとするならば、甘ずっぱいがしっくりとくる。
それだけ純粋な恋に、俺は人生で初めて落ちていた。
「ひーろーしーっ!」
「…裕次郎か。」
「今から佐世保バーガーな。」
「ん…、あぁ。」
「凛くんも来るって!…永四郎も一緒だけど。」
「あぁ。」
「最近バーガーしか食べてない気がするさー、寛飽きてないば?」
「うん、腹が減ってるときは何食べたってうまい。」
「ははっ、だーるか。」
「うん。」
「おーい、裕次郎、寛来るって?」
「うん、来る来る!」
「そっか、なら行こうぜ。」
「うん。」
「あ、…裕っ、次郎…。」
「うん?」
「靴紐、…ほどけてる。」
「え?…あ、ホントだ、にふぇー。」
「ああ…。」
「ははっ、裕次郎は転ぶとかじゃなくて、普通に踏みちぎりそうだもんな。」
「ぬーがよそれ、わんどんだけ怪力ば?なぁ、寛?」
「だからよ。」
ひとりの時にその名前を呼ぶよりも、誰かと居る時に呼ぶ方が何倍も緊張する。
周りにいる誰かに、この乾ききった喉の奥から発せられる声の不自然さを悟られる気がして焦ってしまうからだ。
だから余計に、久しぶりに凛と出掛けることになった時、平静を装う事の出来ない自分が恥ずかしかった。
「つーか、わん思うんだけどよぉ…、いったーのがお似合じゃね?」
凛のこの言葉を聞いて、全身からぶわっと汗が噴き出る感覚がした。
凛が面白いものをみつけたような顔でにやりと笑った時、
今日、この佐世保バーガー2階で起きた丸々2時間の出来事を、
無かったことに出来る方法は無いかと本気で考えてしまった。
あぁ、やはり凛には感づかれていたか。
隣で頷く永四郎にも。
それを確信してしまってからはもう、裕次郎の顔をまともに見ることは出来なかった。
*
永四郎が凛の家へ寄って行くというので、ふたりを見送ってから、遠回りをしていつもの海岸沿いの道に出た。
裕次郎の家と俺の家との丁度真ん中あたりにある海の、防波堤に腰掛ける裕次郎と、組んだ腕を乗せて寄掛る俺。
同じように、赤々と海を染めるオレンジ色の夕陽を見ていた。
「もう、諦めてもいいかやぁ…。」
ふたりと別れてからずっと無口になっていた裕次郎が、最初にこぼした一言。
それはあまりにも弱々しく、俺は何と言っていいのか分からなかった。
「………寛、あれって、本当?」
「ぬーが?」
「凛くんが言ってた事、ほんとかなって思って。」
「あぁー…うん、本当。」
「だけど寛、凛くんが好きなんじゃなかったば?。」
「好きだったさ、やしが…、分かるあんに?凛は永四郎しか、…見てない。」
「わんだってそれくらい、分かってるよ。…だからって、凛くんがダメだったらから次はわんなの?
わんがダメならまた他の人?…寛は、誰でも良いの?」
少なからず、裕次郎にこんな風に思われる様な予感はしていた。
だからこそ隠していた感情でもある。
もちろん他にも色々と理由はあるけれど。
このタイミングで裕次郎に知られるというのは誤算であったが、
そうでなくてもいずれは本人に伝えるつもりはあった。
少し時期が早まっただけ。
そう考えると、自然と素直な言葉がこぼれてくるようだった。
「…しんけん、そう思う?そう思われているなら仕方ないやしが、
わんは裕次郎の事、凛の次とかそんな風に考えてないし、裕次郎の次の事も考えてない。」
「…。」
「一緒に居た時間があるから、好きになったんど、裕次郎の真っ直ぐな所知ってるから、好きになった。
同じ場所に向かっていないと知られたら、もう隣を歩けないと思った。だから言えなかった…、それだけやっさ。」
「………寛。」
「わっさんど、もっと早くに言うべきだった。」
「…わんも、傷付けるような事言ってごめん。」
裕次郎は防波堤から降りて、来た時と同じようにゆっくりと歩き出した。
俺もそれに続いて歩き出す。
分かれ道に差し掛かっても、裕次郎は何も言わずに俯いたまま。
無言で行ってしまうその背中に手を振って、これでいいのか?と、自問する。
タイミングって、俺が思うよりずっと大切なものなのだと思う。
今を逃して、もう二度とチャンスが巡ってこなかったとして、
悔いが残らないって言いきれるのか?
同じ後悔を2度も出来ない。
とぼとぼと歩く背中を追いかけて、その左腕を掴んだ。
「裕次郎、待って…、話したい事がある。」
「え、…。」
振り返った裕次郎が、まん丸い目をして見上げてくる。
裕次郎の好きって気持ちの強さを知っているから俺、
本当はこんなこと言うの、すごく怖いよ。
だけど何も言わないまま、別々の道を歩くことになるのは、
知らない内に隣を歩けなくなっているのはもっと怖い。
だから言うよ、裕次郎。
せめて「バイバイ」って、いつもみたいに手を振ってから居なくなってよ。
「……裕次郎。」
「うん?」
「わん、裕次郎の真っ直ぐなところ、しちゅんど。」
「…う、うん。」
「わんに、凛を諦めろなんていう資格は無いってことも分かってる。」
「…。」
「やしが、裕次郎が辛い時は、わんも苦しい。裕次郎が無理してるところ、わんはもう見たくないんばぁよ。」
「…。」
「だから、わんにしないか?…大切に出来る自信、あるよ。」
その言葉を聞いた裕次郎が、ヒクリと肩を震わせた。
まん丸くしてこちらを見上げていた瞳は一瞬、ジワリと涙で濡れた様に見えたけれど、
次の瞬間には帽子のつばをグイと下げて表情を隠してしまったので、
本当のところは分からない。
「…………ありがと。やしが、わっさん、…今頭が追い付かなくて。」
「…うん。」
「だからちょっと、考えさせて。」
「…わかった。」